一番油が乗ってた
試験課
私が26才の頃ですが 有る大手通信機会社の下請け会社へ就職、下請けとは言っても 技術部、営業部、を持っていて独自に自社製品の開発をしていました。
先ずは試験課へ配属 この頃はクロスバ交換期です 電磁石スイッチのお化けですね、一本の線をスイッチで切り替えて相手の電話迄繋ぐ と言う方式ですよ、ですからね線が凄いんですよ 束線と言って直径10cm位有る 線の束ですよ 一本は0.5ミリ位の同線に被覆した線100本、200本を束にした物です。試験課とはこの線が決まった電磁石スイッチに繋がっているか と言う試験ですね 当然電話と電話の通話試験も行いますよ。
ある日 皆さんも記憶に有ると思いますが「オイルショック」です、あのトイレットペーパーがスーパーから消えた事件です、とたんに仕事がストップ 。
営業部
私は営業部へ転属、後で聞いたのですが 残った人達の半分が退職との事です。
営業部で半年位 教育されて、群馬県高崎市のデイーラーに出向 大手のデイーラー高崎出張所です、先ずは所長のカバン持ち兼運転手 これで営業の何たるかを学びました、有る銀行の総務部長自宅前で(「ナポレオン」あの頃高かった洋酒です)を持って帰宅を待ってます、部長が帰って来ると (おかえりなさい) と駆け寄り「ナポレオン」を差し出しました、お陰で銀行の交換機システムを受注しました。半年位で慣れて来ますと 受注した工事一切を任されまして 現地の工事屋さんと交換機の設置 電話の配線と試験を行い、NTTに外線接続の申請 これ等を完了させて 外線接続で引き渡しです。
1年半位で営業部へ帰還です。
営業部に半年で工場の試験課へ復帰。
技術部
この頃にモトローラの8ビットマイコン アセンブリ言語の教育を受け、選抜で技術部へ出向です、今回 開発の製品は207~1030(外線2、内戦7)~(外線10、内戦30) の電子ボタン電話システムです、東京は2回目です 本社と寮が東横線の武蔵小山に有り、技術部は中目黒駅前のビルに入ってました、この製品の外線制御ソフト開発でした、このソフトを任されたので 新鮮で楽しかったですよ、このソフト開発部門はみんな若くハツラツとしてましたね、昼休みには首都高のガード下へ行きテニスですよ 私は30代でキツカッタ デバックも完了し 開発完了で工場へ復帰、その後もバージョンアップなどで何回か出向 この時は技術部が五反田に移ってました。
製造技術課試験係
工場でも電子交換機の時代になり、仕事も一変してました、そこで新しく丸紅の自動試験システムを導入する事になり その教育で池袋のサンシャイン 26階の丸紅教育センターへ2ヶ月の出張です、大きいシステムでしたがペイするのかな~ 。
そうこうしてる内に工場閉鎖の話が・・
工場は2工場有りますのでその内の1つを閉鎖です、幹部社員(課長)は親会社の幹部社員に成れないので 同じ関係下請け会社の幹部社員として転籍。
我々はこの親会社の兵隊社員として転籍。
《凄いでしょう まだまだ 続きますよ》
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